小説『僕が殺した人と僕を殺した人』東山彰良:読了本レビュー〜1984台北、ぼくらは13歳だった〜:あらすじ・レビュー・感想※ネタバレあり
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今日は、読了本レビュー『僕が殺した人と僕を殺した人』東山彰良:1984台北、ぼくらは13歳だった〜:あらすじ・レビュー・感想、
を紹介するよ。
【基本情報】
著者:東山彰良
出版社:文藝春秋
刊行年:単行本2017/5、文庫本2020/5
冊数:1
韓流・華流ドラマ情報〜てこ監修”イケメン備忘録”の当ブログだが、今回は特別企画として本レビューだ。
なぜか。
まぁ、有り体に言うと近頃華流ドラマを観るのにわりと飽きている。
で、我のコアを司って来たヴァンパイアやデーモンなどのドラマに再びうつつを抜かしたりしていたのだが。
ふと書棚(家人共有)にある本に目を止めて。
東山彰良か・・・
『流』の人だな。
たしか台湾生まれとかだったよな。
と思い手に取ったのが、本書『僕が殺した人と僕を殺した人』だ。
我が買って積んでいたものか、住人のものなのかはさっぱり記憶にないしわからないが。
『流』を読んだ時は、1975台北のノスタルジィに浸った記憶があり。
こんなことを書くと、このレビューを書いているてこという人間は過去に台北に居たのだな、と想像されるかもしれない。
しかしそれは違う。
てこは1975の台北は知らない。
全てはてこが、見聞きしたものからの想像と妄想の世界の1975台北だ。
で、中華ドラマを見るモチヴェーションになるかもしれないし、ヴァンパイアドラマのレビューよりは少しはましかもしれない、と思い読み始めた次第だ。
ちなみに、著者の東山彰良さんは『流』で2015直木賞を受賞しており、台北で生まれ5歳くらいまで過ごしていたはずだ。
読み始めると、てこの予想通り今回も台北での話がある。
1984台北だ。
『流』と同じ時系の話で、冒頭にちろっと流エピソードがぶっ込まれていた。
檳榔の噛み汁で口の周りが赤く染まった野郎は出てこないが、牛肉麺屋や油を吸ってべとべとになったハエとり紙や月桂樹の黄色い花なんかが、瞼の裏にすぅーと浮かんできて。
徒然なるままにその風景を描いてみる。
こんなことを書くと、このレビューを書いているてこという人間は、絵が描けるのだな、と思うだろう。
嘘だ。
まったく描けない。
全ては頭の中での出来事であり妄想だ。
ってな感じで始めるよ、最後までよろしく!
僕が殺した人と僕を殺した人、ってどんな本なん?
物語は、2015アメリカから始まる。
一人の少年が布袋劇の人形師と出会う。
その人形師は、通称”サックマン”連続殺人鬼だ。
今までに6人だか7人だかの人間(いずれも少年)を殺している。
この殺人鬼を追う話か、と思ったが。
この時あっさりサックマンは逮捕される。
サックマンを弁護する《わたし》は、サックマンの知り合いらしい。
2015アメリカ現在タームは、一人称《わたし》である弁護士の回顧録、という仕様で進むようだ。(名前はわからない)
↓
で、回顧録は1984、場所は台北だ。
・・・
そこには13歳の少年が三人(➕その中の一人の男子の弟)が居る。
・ユン
・ジェイ
・アガン➕弟のダーダー
台北タームの語り手は一人称《ぼく》のユンだ。
つまり《ぼく》であるユンが、リアルタイムで実況中継、という仕様だ。
この四人の台北少年は、それぞれ家庭の事情を抱えており。
それでも青春の時間とは、ねっとりと密度が濃く、この年代の特権”特別な時間の流れ”でしか進まない。
だから正直な話、先が気になって面白くて一気に読む、と言うような類の読み物ではない。
日々の何のことない日常の出来事から、三人➕一人の人間性を読者が想像し人物像を確立させるための時間であり、それは重要ではあるがわりと長いのでダレる。
中盤までは、1984:2015の比率が9:1くらいであり、ほぼ1984台北での話だ。
この台北少年たちの誰かがいずれサックマンになる背景となり得る出来事が、無邪気な男子たちの身に起きる事になるのだろうが。
物語は終始青春ノスタルジック仕様でだらくらと進み、事件の核心が一向に見えてこない。
まぁ、台北の市井の暮らしのファジーさや、人を殺すかどうかを占いで決めるとか。
その辺の描写が素晴らしいので、物語にさほど動きがなくても文学として楽しめる、という巧みさはある。
町に漂う粘っこい空気や、息や汗や残飯なんかか混じった形容し難い匂い、喧騒、そんなものが次から次とリアルに感じられ。
そのうちに台北少年四人と意識を共有してるような錯覚さえ覚えてしまう。
そういった表現力は特筆すべき点だと思う。
中盤になると、2015のサックマンの様子や《わたし》とのやりとりが少しずつ増えて来て。
やはり思った通り、サックマンがサックマンになってしまった背景には、台北でのあの計画が絡んでると確信するのだが。
物語が進むにつれ、なんか違和感を感じてくる訳だ。
この違和感こそが、この本の”ミソ”である。
この”ミソ”の説明をしちゃうと、読む悦びのほとんどを奪ってしまいかねないので、ここでは言わない、いや言えない。
勘のイイ人なら半分くらいで”ふぉ!?!”となるのかもだが。
そうではない普通の感覚の人(てこくらい)は、本人が自己紹介をする残り三分の一でようやく”ふぁ?!!”となる。
そういった意味で言うと、そこが本作の唯一の盛り上がりポインツであり、その後はネタばらしタームとなり退屈この上ない。
いや、読み取ろうと思えば(文学的に)いくらでも読み取れる要素はあるが、何も無理してまで読み取る必要はないだろう。
てこは東山さんになんの義理もないのだから、読みたいように読んで感じたいように感じるだけだ。
なので、今回はレビューではなく読書感想文と言う事でお許しいただきたい。
だって↑これじゃどんな本なん?か全く1ミリもわからない。
本当にごめんなさい。
ちなみに、最初の方に
〈一人称《わたし》である弁護士の回顧録、という仕様で進むようだ。〉
などと書いているが、その所見こそが間違ってた。
この点はアイディアとして評価したい。
僕が殺した人と僕を殺した人、てこが見た感想
僕が殺した人が誰で、僕を殺した人が誰なのか、実は全くわかってないてこだ。
こじつけようと思えばこじつけられそうな気もするが、こじつけさえできない。
それほどに文学的才能のない我に、我ながら落ち込む次第だ。
てこは本は好きだが、多くの本を好む訳ではない。
大抵は同じ本を何度も読むのであり、新しく本を購入する理由は
・中華ドラマの原著
・好きな作家の新作(新作など滅多に出ない、そんな作家ばかり、もしくはすでにこの世に居ないので新作は無い、永遠に)古本(第○版等)
・偶然
・なんとなく装丁に惹かれて
意外の理由は無い。
そして、その中でスタメン入りする本はほとんど無く、数年に一冊あるかないかの確立だ。(レジェンド認定作家の新作は無条件でスタメン入り。例えば一回目でおもんない、もしくは理解不能、だが二度目で見えてくる、もしくはいずれ開眼できる可能性、でスタメン入り)
だからてこ個人の書棚はわりと小ぶりだ。
本作は残念ながらてこのスタメン本には成り得ない。
最大の理由は、少年四人の誰にも共感したり惚れ込めるキャラが居ない事だろう。
小説全体にはそれなりな雰囲気はあるものの、てこの心に刺さる思考回路の登場人物が居なかったのが大きな敗因だと思われる。
そうだな、強いて言えばアガンのぱぱであるアホンさんが、登場人物中一番魅力的だった、そんなレヴェルだ。
何より、《わたし》のキャラがわりとクズいのが残念なのだ。
この選択は、著者の痛恨のエラーだと思う。
ここはやはり弁護士《わたし》は〇〇であった方がよかったのでは無いかと思う。
それならば、少しはこのキャラに思い入れられる気がする。
さらに、エピローグでさらに萎える。
《わたし》は一体どこへ向かっているのか。
それをする意味がマジで理解できない。
記憶さえあれば生と死に分かつともいつでも一緒、ならば尚のことエピローグの行動はナンセンスだ。
記する意味などないはずであり、そこにあるのは間違いない自己満足だ。
納得いかねぇ・・・
そして、帯などに書かれている”ミステリ”だが、ミステリ要素は見当たらない。
この本は、東山彰良節の”台北少年青春群像劇”だと思う。