香港・中国合作映画『さらば、わが愛~覇王別姫』映画レビュー:そこに愛はあるのかい?:陳凱歌チャン・カイコー監督作品【張国栄/張國榮/张国荣レスリー・チャン】【張豊毅チャン・フォンイー】キャスト情報・あらすじ・感想※ネタバレあり
ご訪問ありがとう、てこブログへようこそ。
今日は香港・中国合作映画『さらば、わが愛~覇王別姫』を紹介するよ。
@ベゴニア(鬓边不是海棠红)を視聴中なのだがどうにも落ち着かない。
なぜか?
「覇王別姫」がチラつくからである。
↑を見たらもうどうにもこうにもならん。
彼は「覇王別姫」で小四を演じた雷汉さんである。
”高い襟は女形のイキ”ってツイートしてた方がおりましたが、ホントに粋な事をおっしゃる。
我慢したものの、@ベゴニア26集で辛抱たまらず
封印していた張國榮レスリー・チャン召喚、今一度見てしまった。
しかも酔った勢いで。
思春期少女か!おまえは!と自分を叱りたいてこである。
その昔、こんなものまで買って↓
まさかの中文シナリオである。
ぇ?ちゃうやん?原作ちゃうやん?
で原作(中文は当時読めなかったので翻訳本です)も買い。
で身も心もどっぷり淵に嵌ったあの頃。
動いてる張國榮がほんっとうに久しぶりで、涙が溢れて止まらない。
未だ、てこの暗く深い淵は埋まってないのだと、改めて自覚した。
彼亡き後、数多くの麗しの殿方たちがてこの心を癒してくれていたと思っていたのだが、思ってた以上にダメージが深かったのであろうなぁ。
ってな感じで始めるよ、最後までよろしく!
そこに愛はあるのかい?
原作である小説版「覇王別姫」李碧華:著は、同性愛に対する表現や態度は非常に明確で、寛容であり自然である。
そこには確かに愛が存在する。
しかし、陳凱歌チャン・カイコー脚色による「さらば、わが愛覇王別姫」は同性愛に対する差別・偏見・拒絶・恐怖・嫌悪感、という極端なHomophobiaに満ちている。
同性愛というテエマに関してはあくまで内面的で、抑えられていたと思う。
そして、菊仙(鞏俐コン・リー)によって同性愛のプロットのバランスを取っている。
程蝶衣、段小楼と菊仙の三角関係を二男一女と捉えるか、二女一男と捉えるかは、観る側に委ねられていると言える。
陳凱歌監督は徹底して程蝶衣(張國榮レスリー・チャン)と段小楼(張豊毅チャン・フォンイー)、ふたりの感情を明確に表すことを避けていたし、相手の小楼でさえ避けていたように見える。
ただひとり、蝶衣だけが感情を言葉や所作で狂おしいほどに表現している。
あったはずの愛が、そこには存在しなかった
本当に切ない。
同性愛と文化大革命
中華でこのような内容を取り扱うのは危険な領域である。
監督の苦しい胸の内もわからなくもない。
映画が売れるかどうか以前に公開できるかどうか、というリスクが大きい。
現に当初本国では上映禁止であった。
その後1993年にカンヌでパルム・ドール受賞でようやく公開したという経緯を持つ。
と書くと簡単なようだが、パルム・ドールを受賞してもそのまま公開、は許されるはずもなく公開してすぐに公開中止に。
”修正”してからの公開ならOKってことで。
じゃぁ、どこを修正したん?
これが、まさかのラストシーンらしい。
実際には吹き替えのセリフを変えただけだが、まったく違う印象になるという。
日本に入ってきたときには修正前の吹き替えに戻ってましたけどね。
文革の悲惨なチクり合いからの拷問シーンとか、ではないらしい。
「同性愛に死す」ってのがあくまで問題だったらしい。
当時、同性愛は犯罪として取り締まれてたらしいから。
腹を括れなかったカイコーさん&フォンイーさん
”程蝶衣は6本指であった”という設定だが。
彼が2018年の講演で語ったことによると、
この指は、劇団に入る際、母親によって切断されるが、この6本目の指こそ程蝶衣の生殖器官の暗喩であるというのだ。
指を切断しなければ”我本是女嬌娥,又不是男儿郎(わたしは女、男ではない)”という変化は成立しない。
この点こそが程蝶衣の”雌雄同体”の基礎となっているという。
そこまで言うのなら、カイコーさん腹括って愛を語ってほしかった。
もし実現していたら、間違いなく「ブエノスアイレス」を超えていたはず。
相手役の小楼フォンイーさんも「芝居と現実を混同するな」なんていけずな事は言っちゃダメ。
密かに袁に嫉妬してたくせに。
この小楼兄さんはクズの極みで、最後は文革が怖すぎて蝶衣の事も菊仙の事も裏切る。
とうとう”愛しても、愛し足りない、が3周まわって憎しみにかわる”さまが切なすぎる。
そして”憎んでも、憎しみきれない、が3周まわって愛にかわる”さまが辛すぎる。
要するに”堂々巡り”悲しき性である。
それもこれもカイコーさんとフォンイーさんが腹括れなかったせいである。
てこ監修”イケメン備忘録”程蝶衣【張國榮レスリー・チャン】
とにもかくにも美しい。
↑この粋な杯の持ち方を見よ。
程蝶衣こそがこの映画の魂である。
同性愛も原作のようには語られておらず、芝居と現実を混同してるひとりの女形(おやま)の一生を描いた作品だと思えば納得できる。
それほどにカリスマであるからして。
小楼兄さんに隈取を施す姿は非常に耽美である。
美しい煙草を持つ手。
女形なのである、生粋の。
阿片を吸うけだるさ、足を組む時の優雅さ、スープを飲んで唇を舐める妖艶さ、所作すべてが耽美である。
確実にジョン・ローンは超えている。
狂おしいまでの悲哀。
巡り巡って憎しみにかわるときがくる。
この切ない幕切れが、彼のリアルの人生と重ねて見てしまうのは仕方あるまい。
それほどにカリスマなのである。
張國榮レスリー・チャンは、役者においても人生においても、完全にスターだったと明記しておこう。
覇王別姫とは?
最後に京劇「覇王別姫」を説明しよう。
崑曲から進化したのが京劇であるが、「覇王別姫」とは京劇の演目で、簡単に言うと、項羽と虞美人の哀話を描いた作品。
楚漢争は項羽が漢の待ち伏せにあって、故事成語「四面楚歌」の由来になっている。
当時、負けた側の女性は相手方の捕虜になるのだが、虞美人はそれを良しとせず剣に伏す。
その後項羽も自らの剣で最後を遂げる、という物語。
ラストは原作とは全く違って、11年後に再開した二人がまた「覇王別姫」を演じ、虞美人が覇王の前で死ぬ、というもの。
この自決は、蝶衣として小楼兄さんへ、そして虞美人として覇王へ、の最愛の人への最期の告白だったのだと思う。
ラストがどうであれ、カイコー監督が気にいらないところがあれど、ゲスな時代を生きた純粋すぎる一人の人間の物語として成立している事に変わりはない。
そこには狂おしいほどの愛が詰まっているのだ。
そして、ただただ張國榮レスリー・チャンの美しさと偉大さを感じるのである。
追記として:原作で蝶衣は死んでいない。
この映画のラストは張國榮と張豊毅で話し合って決めたらしい。
そういう事実を知るにつれ、10年後の彼を想い、悲しさが込み上げてくるのである。