中国史「悪名たかき隋の煬帝」はホントに暗君なん?時代劇から見る皇帝を考察してみよう「独狐伽羅(独狐天下)」「蘭陵王」「MULAN(巾帼大将军)」「隋唐演義」

2022年8月8日

ご訪問ありがとう、てこブログへようこそ。
 
今日は、中国史「悪名たかき隋の煬帝」はホントに暗君なん?時代劇から見る皇帝を考察してみよう「独鈷伽羅」「蘭陵王」「MULAN」「隋唐演義」
を紹介するよ。
 
今日は、いつものドラマ・映画・本レビューではない。
割と真面目寄りで、日本人に馴染みのある”悪名たかき隋の皇帝・煬帝”について書こうと思う。
一人称は”てこ”ではなく”わたし”でいくよ。
なので、今日はライフスタイルであるてこ監修”イケメン備忘録”はお休みである。
 
中華な古装ドラマを長いこと見てきているが、見れば見るほど思うことがある。
それは「あくまでフィクションである」という点である。
史実に基づいたフィクション、であれ
まんまallフィクション、であれ。
フィクションであることは事実なのである。
 
史実を知ってこそフィクションは楽しめる、のであるが。
が、しかし。
ここにもひとつ落とし穴があって。
それは「じゃぁ、史実は事実なのか」という実に大きな問題である。
 
例えば始皇帝についての初めての記録は司馬遷の”史記”である。
シナの初めての歴史書であるが。
始皇帝の評判が悪いのは司馬遷のせいである。
初めての歴史書に悪口を書かれているわけだが。
”秦王の人となりは鼻が高く目が細くくま鷹のように胸が突き出て声は豺のようetc、、、”
見た目だけじゃなく人格を否定し”非道が過ぎて天命を失って滅びた”と書かれ、後世、秦の始皇帝は文明破壊者として汚名を残すこととなる。
しかし、実際は画期的な業績がいくつもあり、この人がいなかったら統一国家シナはなかったのだ。
悪名たかき”焚書”も文字統一のための措置であったし、”中国語”とはすなわち始皇帝から始まっているといっても過言ではないのである。
 
「史記」を書かせた武帝のことは、良いことも悪いことも書かれており功罪相殺といったところだが。
わたしに言わせれば、罪しか語られていない始皇帝より、武帝の方がはるかにひどい暴君だと思う。
 
このことからわかるように、シナの歴史書はシナ人が勝手に書いたものであるから「どこそこにこう書いてある」というのは当てにならないことが多いのである。
ではどうしたら事実に近づけるか?
なるべく信憑性の高い文献を探すことである。
間違ってもドラマなどで事実を知ろうとしてはいけない。
情報を集め、そこに広げて、一つ一つ注意深く検証し、比較し、研究している人が世の中にはいる。
わたしは十数年いろんな歴史書を見ては疑問や矛盾を感じてきたが、それに答えをくれるものに出会った。
岡本隆司先生と、弟子であり妻である宮脇淳子先生の著書である。
このお二方の著書にはおそらく間違いはないはずである。
彼らの著書に基づき”悪名たかき暗君・煬帝”を考察してゆこう。
 
ってな感じで始めるよ、最後までよろしく!

隋朝発足まで

三国時代→五胡十六国を経て↑南北朝時代の様子
 
一般的に古代のシナ史と言うと、漢帝国が3つに分かれて「三国志」の時代に入り、さらに胡族が入ってきてばらばらになり、ようやく南北朝に集斂した後、隋によって統一される、と捉えられているが。
実際は小規模な勢力分布は変わらず、地域ブロックが明確に分かれていたために多元的な世界であったと予想できる。
当然の帰結として、利害調整の難しさから各地で戦闘が頻発していた。
このような背景をしっかりと覚えておいて欲しい。
独狐伽羅(独狐天下)は南北朝時代末期の6世紀中ごろ、北魏の孝武帝のエピソードから始まる。
後に隋の初代皇帝となる楊堅の嫁の独狐家の娘に焦点を当てたドラマである。
ちなみに
般若ねえさん→北周王后(死後、559年に皇后に追尊)
伽羅→隋皇后
曼陀ねえさん→唐皇后(死後、息子の李淵が唐の初代皇帝となって亡き父李昞に帝号を贈り、母を皇后とした)
 
北魏は一応日本の中学でもきちんと教わる。
北魏がシナ史で重要視されるのは隋・唐がここから出ているからだ。
ちなみに北魏とは鮮卑族の王朝である。
北魏はやがて西魏・東魏に分かれ、西魏は宇文氏に国を奪われ北周となる。
このあたりは「蘭陵王」で描かれている時代である。
で、北周は、東魏にとって変わった高氏の北斉を吸収合併して華北を再び統一する。
その後、581年に楊堅によって国を奪われるまで続く。
ちなみに、ドラマ「蘭陵王」は高長恭とその嫁の悲恋を描いたドラマである。
北斉皇帝の高緯がサイコなゲス野郎として扱われ、宇文邕はかしこクラス設定である。
 
一方、宋(南朝)であるが。
華北への反乱で名を挙げた綾裕がたてたのが宋。
こちらは次々と同様の政変交代を繰り返す。
斉・梁・陳と短命政権を経て最後は589年に隋(楊堅)に滅ぼされる。
 
この混沌とした世界をようやく統一したものの、政治的には一つになったとはいえ社会の多元性は変わらない。
それをいかに整合していくかが、その後の政権に問われることになる。
その辺りの時代のドラマは↓「MULAN」(巾帼大将军)
ここには貫禄がつきすぎた伽羅ねえさんと、尻に惹かれた楊堅と、架空のサードプリンスがおる。
このドラマで出てくる宇文毓の子(前朝の上皇の忘れ形見)の退場劇などは設定ともに史実ではなくフィクションである。

煬帝爆誕

ようやく本題に、長かったっすか?
すみませんね。
 
隋王朝の歴史は、北西の辺境に位置した北周政権が、その東隣の北斉政権を滅ぼし併合したことから始まる。
大変なところは北周(宇文氏)がやってくれて、その北周にとって変わって、さらにぐちゃぐちゃもめてる南朝の陳政権も合わせて、なんだかうまい具合に統一を成し遂げた楊堅。
 
隋王朝はわずか30年ほど、親子2代で幕を閉じる。
楊堅が文帝で、最初の皇帝であり、その後を継いだのが息子(第2皇子)の煬帝で事実上隋朝ラストエンペラーである。
この煬帝に苦しめられた人々が唐朝を打ち立てるぞー、とがんばるドラマが
「隋唐演義〜集いし46人の英雄と滅びゆく帝国」である
↓人格破壊者のサイコ・ソシオパス設定の煬帝がこちら
煬帝は遣隋使を受け入れたことで有名だが、他にも数々のエピソードがある。
 
イー:兄暗殺
アル:小野妹子が差し出した手紙を見て激怒
サン:浪費家
スー:部下を釜茹で
ウー:最後は反乱で部下に絞殺される
 
ドラマでは、色好き、変態、粘着、非道、横暴と、これでもか解釈で描かれている訳だが、実際はどうだったのか少し考察してみよう。
 
まずは、兄暗殺であるが。
道徳的にも人道的にも反していることではあるが、古今東西ロイヤルファミリーにはついて回ってる話ではある。
だからいい、と言うわけではなくて、煬帝だけがそれを追求されるのはいささかアンフェアではないだろうか。
 
遣隋使の「日出づる国の天子…」に激怒。
これは、いけませんねぇ。
短気はそんき、と言いいますが。
、、、とも言えるが、おそらく引っかかったのは”天子”表記だろうと思われる。
シナの皇帝は地球上で唯一の天子であるはずなので(シナ思想)
天命だとか、大義名分だとかを重要視していたわけです(シナだけじゃなくみんなであるが)
でも煬帝は結局のところ無礼だとは思っても実利を取って使者の行き来を認めている。
案外とリベラルなとこもあるんですね。
 
次に、浪費で国を疲弊させた、とあるが。
ここで紹介したいのは煬帝の偉業である

大運河建設

兄を殺して帝位についた後にすぐに取り掛かったのが大運河建設である。
大規模工事を行い610年には大運河を完成させている。
その後、長安を西京とし洛陽に東京を造営し、川沿いには40もの離宮を置いた。
東京造営には毎月200万人が動員された。
 
洛陽や長安は黄河中流域で、東西南北の交通の十字路、商業の中心地ではあったが、農作物が豊かに収穫できる土地ではない。
しかしシナ文明の中心であるから人口は多く、食料は常に不足している状態であった。
豊かな江南の物産を直接運ぶ流通経路が確保され結果洛陽盆地はいっそう栄えることになる。
 
ただしかし、造営は非常に過酷な労働であったろうし、多くは低賃金で低流階級の人間が苦労したのだろう。
しかも流通しているはずの物品も、多くは上流階級や権力者の手に渡り、貧困層は負の連鎖に苦しんでいたはずだ。
ただ、このような貧困・差別問題や悪徳役人問題も隋朝だけでなく、どんな時代・国にもあった(ある)ことではないだろうか。
まぁ、程度の問題はあるだろうが。
 
で、次にあげるのは度重なる

高句麗遠征

この、3度目の正直、でも失敗した度重なる高句麗遠征が隋朝が短命に終わった原因である。
煬帝は612年、113万の大軍を率いて高句麗に遠征するが失敗。
翌年も翌々年も遠征するが失敗しとうとう断念する。
高句麗ってめっさ強かったってことっすね。
確かに戦は国力を疲弊させるし、できることならない方がいいに決まってるが。
北には突厥という強固な国があり、突厥と高句麗がタッグを組んだら大変、っていうやむない事情もあったわけだ。
ちなみに、次の唐も高句麗遠征には何度も失敗してることを明記しておこう。

煬帝の死の真相

最後は反乱で首を絞められて殺された、とある。
 
説明すると、
煬帝は高句麗遠征失敗の後失望し、自らが開鑿した運河で江南に行き、南方の生活を楽しんでいたらしい。
揚州はアラビア人やペルシア人もたくさんやってくる国際貿易の中心で、暖かいし、文化の香りも高くて煬帝は帰りたがらなかった。
でも家臣は家族が北方の草原とかにいるので帰りたい。
で、618年に一向に帰る気がない煬帝に対して家臣たちがついに反乱をおこして殺してしまう。
煬帝は50歳であった。
 
ちょっと意外な感じしませんか?
もっと大掛かりな反乱で、悪行の報いを受けて悲惨に死んだ、ってみなさん思ってませんか?
 
でも、まぁ、しかし、この反乱の背景には、楊玄感の乱をきっかけに李密や李淵、王世充など群雄の蜂起が相次いでいて「憎っき煬帝、お前が諸悪の根源だ」的な流れが大いにあったのだと思う。

煬帝の評価

”部下を釜茹で”という都市伝説はあるものの、信頼のあるソースを探す暇もなくここはグレーのままにさせてしまうことをご了承して頂きたい。
 
一説によると煬帝は高句麗遠征の際に隋国内で反乱を起こした楊玄感にムカついていた。
その楊玄感と関係の深かった軍人の斛斯政は煬帝の怒りに触れることを恐れて高句麗へと亡命。
で、最後の高句麗遠征の時に、高句麗の将軍から斛斯政を引き渡されたので射殺。
それでも腹の虫が治らず釜茹でにした、っていうのがありました。
が、ほんとか嘘かはわからない。
 
煬帝は潰れた王朝のラストエンペラーなので、人格攻撃のような記述が数多く残っている。
『隋書』によると
「帝の性格は常軌を逸しており、行幸も人に知られたがらなかった。
役人たちは競って供物を献上し、献上品が豊富な者は抜擢され、そうでないものは罪を得た。
悪徳官僚は民から搾取し、朝廷の内外は枯渇し、厳しい人頭税が課され人々は安心して暮らすことができなかった。
帝は驕り且つ怠慢し、政務を耳に入れることを嫌がり、冤罪を見過ごし、秦請されたことも滅多に決裁しなかった。
臣下を猜疑の目で見、自分の意にそぐわなければ罪をこじつけて一族までも根絶やしにした」
(中林史朗・山口謠司監修「隋書」より)
 
天命を失ったら、後世の歴史書に悪く書かれる、お決まりのパターンである。
秦の始皇帝も、隋の煬帝も、なぜ天命を失ったかを説明するには、とことん悪く書かなければならないという変な決まりに基づいて、性格破綻など長々と書かれているがどこまでホントかわかったもんじゃない。
 
誰もが知る立派な業績を残していても、天命が尽きたからとマイナス面ばかり強調されるのは気の毒というもの。
為政者は孤独なのだと、改めて思う。
歴史が評価すると言うが、シナ人の筆による評価は上述のように当てにならない。
業績は後世にも残るわけだから、実証的に事績を見ていくことが重要ではないかと思うのである。
 
ここまでお読み頂き、ほんとにありがとうございます。
読んでみて煬帝の印象はいかがなものだろうか?
 
大運河建設・外交(遣隋使)などの立派な業績があるから明君?
それともいくら偉業を成し遂げても民が苦しんだから暗君?
少なくとも、そんな単純なことではなさそうだ、と少しでも思っていただけたら幸いである。

中国史

Posted by teco