映画『スプリング・フィーバー』(原題・春風沉醉的夜晚)映画レビュー:狂おしいほどに君を好きだった・・・【秦昊チン・ハオ】【陳思成チェン・スーチャン】キャスト情報・あらすじ・感想※ネタバレあり

2023年7月10日

ご訪問ありがとう、てこブログへようこそ。
 
今日は、映画『スプリング・フィーバー』(原題・春風沉醉的夜晚)映画レビュー:狂おしいほどに君を好きだった・・・
を紹介するよ。
 
てこブログ”ハオにいさん3連続”である。
ついこないだ
 
 
と立て続けにレビューした。
実はその前にてこブログでは『驪妃-the song of glory-』(原題・錦繍南歌/锦绣南歌)というドラマレビューもしておるのだが。
・・・
これがまた何がどう転がってこんな作品に出たのかは知らんが。
ありていにいうと”ラヴ史劇”である。
 
かつては、てこがこよなく推している張震さまも「運命の桃花~辰汐縁」(三生三世宸汐緣)なるラヴ史劇に出てしまい。
今まで積み重ねてきた映画人としてのイメイジを、ラヴ史劇なんぞで壊されてたまるものか、という想いを込めて。
”張震さま映画人アピール草の根活動”を細々とではあるが続けてきているのだが。
 
ハオにいさんも、である。
錦繍南歌における、”フクロウ”を払拭させるべく社会派ミステリを2本紹介したが。
ぃや、まだまだだね(by越前リョーマ)
にいさんの魅力はこんなもんじゃないんですよ、まじで。
 
にいさんといえば映画人のイメイジが強い。
そしてその映画といえば【婁燁ロウ・イエ】作品であろう。
 
本作『春風沉醉的夜晚スプリング・フィーバー』は婁燁監督が中国政府から5年の映画制作禁止処分中にこっそり制作した作品である。
当然違法行為であり、外国資本で最低限の機材によるゲリラ撮影であり。
本作品は家庭用のハンディカメラでの撮影である。
なので、画面は極端に暗く手ブレもひどい。
 
『天安門、恋人たち』(原題・頤和園)という映画で1989年に発生した六四天安門事件の描写があったことからこの処分を受け、いまも中国大陸での上映は禁止である。
 
そんな当局のプレッシャーの中で、ぃやプレッシャーがあったからこそ生まれたであろう”表現の自由”を皆にもぜひ見ていただきたい。
 
ってな感じで始めるよ、最後までよろしく!

スプリング・フィーバーってどんな映画なん?

タイトルになっている『春風沉醉的夜晚』とは郁達夫(1896-1945)という文章家の書いた小説である。
ちなみにてこは1文字も読んだ事がない。
直訳すれば”春のそよ風の夜”である。
たまたま今日(3/19)神田の古本市に行くので探してみようか、などとも思う。
大江健三郎は、郁達夫を「アジア現代主義の先駆」であるとしているようだしな。
 
物語は2人の男の濃厚なラヴシーンから始まる。
 
そうこの映画は同志片(ゲイ映画)である。
 
中華なゲイ映画といえば。
 
イー:『ブエノスアイレス』(原題・春光乍泄)
アル:『藍宇〜情熱の嵐RAN YU』(原作・北京故事)
サン:『スプリング・フィーバー』(原題・春風沉醉的夜晚)
 
不動の3(スリー)トップである。
 
てこはゲイに抵抗はないし、社会のルールやシステムに収まりきれない人間の性(さが)であったり、業のようなものを感じる作品はわりと好みである。
 
で、本作はデラシネな主人公、江城ジャン・チョン(秦昊チン・ハオ)を中心にした人間関係群像劇である。
・江城の恋人、王平ワン・ピン
・王平の妻
・妻が浮気を疑って雇った探偵、羅海濤ルオ・ハイタオ(陳思成チェン・スーチャン)
・羅海濤の恋人、李靜リー・ジン(譚卓タン・ジュオ)
この男女5人の紡ぐ物語となっている。
 
江城の恋人の王平は本屋に勤めていて(経営かもしれん)、冒頭に『春風沉醉的夜晚』の朗読がバックグラウンドで流れる。
2人の情事のあとのピロートークである。
 
この詩の朗読は後に大きなフラグとなっている。
婁燁作品とは、無駄な描写は一切ない。
全てはシークエンスである。
なので、画面は暗く手ブレもひどいが、目をカッ開いて1シーンも逃す事なく見ないといけない。
全てに意味があるのである。
 
王平との情事は探偵を雇った妻にバレ、妻は江城の職場にまで押しかけてきて
「別れろや、
気持ち悪んだよ、男同士でさ」
なんて騒いでます。
 
で、江城はどうしたかっていうと。
・・・
あっさり別れる。
夜の街で遊び呆ける江城。
堂に入った遊びっぷりで。
この一連の流れを見ると、江城が今までどんな風に生きてきたのかが想像できる。
 
”愛?
いらないよ、そんなもん
毎日面白おかしく生きてきゃいいのさ・・・”
(ちなみにそんなセリフは一言も言ってない、念のため、全ててこの妄想です)
しかし奥底では狂おしいほど愛を求めてる。
そんな自分の性を呪い。
業の深さを思い知る。
 
「この界隈じゃ有名なあの人が歌うよーーー」
↑を生暖かい目で見つめるのが
↑王平の妻に雇われて江城を尾行する探偵、羅海濤ルオ・ハイタオ(陳思成チェン・スーチャン)である。
ここ最大級の萌え投下シーンである。
 
尾行して
↑こんなシーンを隠し撮りしてるうちに、江城に興味が湧いてくる。
そしてその興味が恋慕に変わった瞬間があの萌えシーンである。
 
という事は、男3人のトライアングルか、と思いきや。
そうではなく。
江城✖️海濤に李靜(海濤の彼女)が入ってくる。
じゃあ男2人女1人のトライアングルかと思いきや。
そうではなく。
 
このトライアングルは実に微妙で。
色恋には程遠いパワーゲームが水面下で行われている。
一見バランスが取れてるようで実は非常にアンバランスであり。
皆がその不自然さに気づいているが落とし所がわからない。
 
最初に見切りをつけたのは李靜(海濤の彼女)だった。
バランスが崩れた時。
ある者は(海濤)甘いと思ってた2人の旅は想像と違うと感じ。
そしてある者は(江城)未来などないと初めから知っていた。
だから当然のように別離はやって来る。
そして、江城は道路に座り込み大声で泣く。
ここ第2の萌え投下シーンである。
 
ずっと受け身であり、言葉も少ない江城。
こうしたい、ああしたい、こうなりたい、など思える人生ではなかったのだ。
だって俺はゲイだから。
こうしたい、ああしたい、こうなりたいなど言えないし、言えるとも思わなかった。
自分はただの通りすがりの人間で。
誰かの重要になるはずもないし、なれるはずもない。
「愛してくれ」
なんて言えないんだ。
「行かないでくれ」
なんて言えないんだ。
俺に言えるのは
「行けよ、おまえなんて愛してない」
ただそれだけなんだ。
(ちなみにこんなセリフは一言も言ってない、念のため、全ててこの妄想です)
 
エモすぎる

スプリング・フィーバーてこ監修”イケメン備忘録”

エモな男子@江城【秦昊チン・ハオ】

@江城こと【秦昊チン・ハオ】うちのハオにいさんです♡
 
こんなにぎらついてぬらついたイケメンなのにゲイ。
それも受けである。
オラオラムーブなのに受け身というもっすごいギャップに萌えるわけだが。
どっからどう見てもガタイのいいイケメンなのに女装して歌う姿が、間違いなく艶っぽい。
タバコを燻らす手が間違いなく色っぽい。
何なの?
天才ちゃう?
王平の妻に襲撃され九死に一生を得た江城は傷跡を隠すためにタトゥを入れる。
そして彼は生まれ変わることを決意するのだ。
陽の下で生きるために選択しよう。
幸せか?
でも、目を瞑ると思い出すのはあの時の君なんだ。
(ちなみにこんなセリフは一言も・・・以下略)
 
エモすぎるんだ。
彼のプロフィールはてこブログ過去レビューを参照してくれ。
探偵業をしていて彼女がいるのに江城を口説き落とした男@羅海濤【陳思成チェン・スーチャン】である。
なぜタイショーくんなのか?
それは『MULANムーラン』(原題・巾帼大将军)を参照してほしい。
 
本作撮影当時は30歳ぐらいだろうか。
巾帼大将军の時(2012)より若々しく髭の剃り跡も青々しくない。
ハンディカムだから目立たなかっただけかもしれんが。
 
わりと甘めのルックですこしポチャな彼が江城との関係の時はまさかの攻めである。
気も強くなさげだし、はっきりしないし、誘われるの待ってる感じなのに。
それなのに荒々しい。
婁燁監督のいい仕事の一つ”適材適所”である。
 
行き当たりばったりの生き方で、江城とのことも本気だったのか好奇心だったのか。
このタイプの人間は今後も同じことを繰り返しそうだが。
願わくば思い直して誠実に生きていてほしいとは思う。
てこは正直この男女5人の中で一番この男が罪深いと思っている。
だから不幸になってても可哀想だとは思わないかな。
江城のこと悲しませやがってクッソ(失礼・ぺこり)
1978年02月22日生まれの44歳、180㎝。
中央戯劇学院卒業。
 
↑の写真は本作に近い歳の頃のもので、近頃は随分と様子が違う。
「北京爱情故事」 で監督業もやりだし、映画版も監督してる。
その後もいろいろと活躍中。
最近だと日本に入ってきてるのは「唐人街探案1・2」

スプリング・フィーバーてこが見た感想

エピローグにまた王平の『春風沉醉的夜晚』の朗読がバックグラウンドに流れる。
王平が江城に読み聞かせている映像も流れる。
 
”こんなやるせなく春のそよ風がふく夜は、いつも明け方まで彷徨い歩く”
聞いてるか?
もう一度読もうか・・・
 
江城は目を開いても閉じても、浮かぶのは王平との日々なのだ。
過ぎて思う。
狂おしいほどに君を好きだった・・・
(ちなみにこんなせりふは一言も・・・以下省略)
 
見終わって感じるのは”絶望”である。
この種の絶望は、目に見えず、そして持続し、救いがない。
少しずつ自分が食い尽くされていくようなそんなイメイジである。
 
全ての感情が複雑に絡み合い。
憂鬱で強烈で突然である。
 
こんなアンバランスなでこぼこの愛を選ぶものも世の中には一定数いて。
そうだとすれば、その愛はそれほど純粋だが誠実ではなく。
暖かさと暴力。
犠牲と利己心。
暴走と妥協。
そんなものを一つずつ目の前に提示された、そんな映画である。
 
てこはこの映画を3回ほど見たが、その都度感じる事が違う。(8年間で3回)
セリフやカメラワークのことなどはよく知らんので、あーだこーだ言えないし。
見るたびに印象が違うのは作品のせいではなく自分のせいなのだと思う。
自分が変化すれば感じ方も違うということだ。
 
ラストについては正直よくわからない。
ただ幸せかどうか、などという観点ではない気はする。
↑プラスチックの蓮の花なんかも出て来るし。
きっと婁燁監督さんが言いたいことって他にあるんだろうなぁ、などとも思う。
 
いずれにせよナイーヴな事はいまだに理解できないが。
2〜3年後にまた観たら、また違う感情が沸き起こるかもしれない。

華流映画

Posted by teco