香港・中国合作映画『覇王別姫〜さらば我が愛』(原題・覇王別姫)映画レビューリライト版:日本最終上映なので♪消して〜リライトして〜3つの愛の帰結とは?原作と比べてみよう【張国栄/張國榮/张国荣レスリー・チャン】【張豊毅チャン・フォンイー】【鞏俐コン・リー】

2023年7月16日

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今日は、香港・中国合作映画『覇王別姫〜さらば我が愛』(原題・覇王別姫)映画レビューリライト版:日本最終上映なので♪消して〜リライトして〜3つの愛の帰結とは?原作と比べてみよう、
を紹介するよ。
 
実は㊗️200記事である。
日本国内での劇場上映権が切れるにあたり、1994年公開当時の35mmフィルムを使用しての日本最終上映となる、というニュースが飛び込む。
そして奇跡的にチケットが取れ無事にみてきた。
で、前々から気に入らなかったレビューをリライトすることにした。
 
リライト前の過去レビューはちなみに↓だ。
今、読み直してもわりと酷い。
@ベゴニア(鬓辺不是海棠紅)を観てた頃だろう。
およそ1年前のレビューだ。
1995が初見で以来何度見たかわからないが、今回は原作も読み直してからの劇場視聴だ。
念入りに気持ちを作って行ってきた。
なので、今回のレビューは念入りにマジモードで行きたいと思う。
そして原作との違いなども説明できたらと思う。
 
ちなみに映画公開当時の原作とは、英訳のものを日本語訳(田中章太郎・訳)されたものだ。
当時は中文の原著(李碧華著)を取り寄せると言う発想がそもそもなかった。
しかしおよそ1年前の@ベゴニア放送時に晴れて中文版を入手した。
最終上映を前に今一度読破し準備は万端である。
 
ってな感じで始めるよ、最後までよろしく!

覇王別姫ってどんな映画なん?

場所は北京。
2人の京劇俳優を中心に物語は進む。
立て役(生ション)の段小楼は、子供の頃からやがて相手役の女形(旦タン)の程蝶衣をかばい支える。
蝶衣はそんな小楼にいつしか恋心を抱くようになる。
2人は花形役者として喝采を浴びるようになるが、蝶衣は舞台の上でしか小楼と愛し合うことはできない。
そして、小楼は売れっ子の娼婦の菊仙と結婚するが、そこから嫉妬と裏切りの渦巻く三角関係が始まる。
そんな2人の愛憎の50年余りを描いている。
 
6本指の切断についてだが、過去レビューではこう書いている。
陳凱歌によると、この6本目の指こそ程蝶衣の生殖器官の暗喩であると公演で語っており、
この点こそが程蝶衣の”雌雄同体”の基礎となっているという、と。
 
しかし、原作を読む限りてこはそうは思わない。
蝶衣は同性を好きになることに疑問も葛藤も覚えておらず、
”我本是女嬌娥,又不是男児郎(わたしは女、男ではない)”というのは自然に受け入れていたように思う。
 
1人の役者がもう1人の役者を心から愛している。
1人の男がもう1人の男を愛する時、物語は単純ではありえない。
しかも時代背景だが2人の出会いは1929年(民国18年)だ。
そこから50年な訳だから。
日中戦争、国共内戦、共産政権樹立、文化大革命という激動の歴史背景である。
 
彼らの愛の帰結とはどんなものだったのだろうか。
 
一番わかりやすいのは蝶衣の愛だと思うのだ。
同性ではあるが、小楼を好きになったのは蝶衣が女性的だったからではない。
例えば、蝶衣が生ション(男役のこと)であっても、蝶衣は小楼を好きになっていたはずだ。
それは長い時間で培われてきたものであるし、当然の成り行きにも思える。
一番近くで、一番長く接してきたのがたまたま男性であっただけで。
蝶衣は男ではなく小楼を、小楼という人間を愛していたのだと思う。
しかし、小楼が菊仙と結婚した時に
「自分が男だからか」
と初めて疑問に思ったのではないだろうか。
兄さん(小楼)も自分が好きに決まってる、そう思い込んでいたからだ。
自分を選んでくれない理由はそれしかない、と信じ思い込まなければ生きては行けなかったのだ。
小楼が菊仙と結婚したあの夜、袁の家で蝶衣が刀と引き換えに無くしたもの、それはいったい何なのか。
あの刀を小楼にあげたら、小楼は僕のことを好きになってくれるだろうか?
僕と過ごした日々を思い出してくれるだろうか?
蝶衣の愚かさが悲しく切なく胸が痛む。
この美しい手。
蝶衣の青白い柔らかな手は、1日とて労働をしたことがない。
畑を耕したことも、銃を撃ったことも、算盤をはじいたことも、丸薬を丸めたことも、人を殴ったこともない。
その美しい手が今は阿片を吸うキセルを持つようになった。
痛みを忘れまどろむ。
伴侶は傍にいる黒い猫だけだ。(映画では出てこないが原著では猫が登場する、ちなみにこの猫も阿片中毒だ)
そこにあるのは小楼を好きだという純粋な想いだけで、奪おうとか愛して欲しいなどの欲望はない。
幼い頃に母に捨てられた蝶衣は、愛情をどうやって得るのかを知らないのだ。
求めていたものが手に入らないことを理屈では無く肌で理解している類の人間なのである。
劇中では小楼を責めるような言動があるが、小説ではそんな描写はない。
 
一方、菊仙は愛を得る方法を知っていた。
そして愛がどれほど危ういもので信用に足らぬ存在かも知っていた。
それでも・・・
それでも、知っていても尚縋りたいのが愛だった。
この杯を飲んだ時、菊仙に密かな希望が宿ったのだ。
「もしかしたら・・・」
という、自分がみることを諦めていた希望。
 
彼女にとって蝶衣とは呪いたいほど邪魔な存在であったはずだ。
自分と小楼の幸せを阻む唯一の存在が蝶衣だったと思う。
「居なくなれば良い」
というのが本心だったと思う。
しかし小楼の手前、優しく接し気にかけている振り、演技をしていたのだ。
それに気付いていないのは小楼だけだったのだ。
 
しかし、監督、陳凱歌チェン・カイコーの解釈は違ったようだ。
阿片中毒で苦しんでいる蝶衣を母のように涙しながら抱き。
文革の時も1人刀を守っていた。
 
陳凱歌監督は、菊仙は蝶衣を哀れに思っていたし。
刀を1人守った行動は、彼女だけが愛に忠実だった、と。
そんな風に解釈しているように思える。
 
原著を何度も読み熟考したが、てこはそうは解釈できなかった。
やはり菊仙は小楼の唯一無二の愛を勝ち取りたかったのだと、そうとしか解釈できない。
しかし、帰結は原著も映画も同じだ。
自決。
そこにあるのは絶望。
そこにある悲しみを思うだけで胸が苦しい。
 
「ごめんね、蝶衣
私はこの勝負一足先に抜けるわ
これであなたが勝つ機会は永遠に来ないのよ、蝶衣」
(注・こんな台詞は言ってない、念のため。あくまでてこの所見です)
 
蝶衣は・・・
蝶衣は文革の壮絶な自己批判の時でさえ、尚も小楼が自分の元へ帰ってくることを望んでいた。
これを機に菊仙と別れてくれるかもしれない、そんな希望が頭かから離れない本当に愚か者なのだ。
その愚か者が愛おしくて涙が止まらない。
判っているのに判っていないフリをする。
見えているのに見えていないフリをする。
いつまで、いつまでこの苦しみは続くのだろう・・・
 
刀についての文革中のエピソードは納得がいかない。
何度考えても菊仙が刀を守るというのは意味がわからないし辻褄が合わない。
陳凱歌監督とてこの意見の相違だ。
永遠の壁だ、おそらく。
 
菊仙が死んだ時、蝶衣は何を思ったのだろう。
喜びか、悲しみか、焦りか、不安か。
しかし文革の波は蝶衣を悩み事で心を煩わせるほど悠長ではなかった。
時代の過酷さが、蝶衣を”生き伸びること”に目を向けさせたのだろうか。
それとも唯一の希望はやはり”兄さん”だったのだろうか。
そんな蝶衣のことを考えると巡る思いは尽きない。
 
そして蝶衣と小楼は労働改造で別々の場所に送られる。
 
再会するのは・・・1976年だ。

覇王別姫ラスト考察しようか?

ここではラストシーンを考察したい。
 
小楼の気持ちについては、いくら考えても真意はわからない。
なぜ菊仙を娶ったのか。
彼は蝶衣の気持ちに気付いていたはずだ。
それが兄弟の情を超えたものであるという事を、小楼は受け入れるか受け入れないか。
受け入れることは”間違い”であると彼は思っていたはずだ。
自分は普通なはずだ、その思いが妓楼通いであり。
映画では惚れて一緒になった体だが、小説では成り行きで娶っている。
 
その後小楼が心の奥底で蝶衣をどんな風に思っていたのか。
菊仙をどんな風に思っていたのかは。
答えはたくさんある。
時に恋人であり、弟であり、同士であり。
一方は時に妻であり、責任を持たなければならない存在であり。
 
小楼は2人を間違いなく愛していたし。
2人はそれぞれが小楼の愛を欲していた。
どちらかを選ぶことはできなかったし、結局は泥沼の三角関係であったのだ。
 
10年が経ち、小楼は香港へ流れ着いていた。
街で京劇の看板に、舞台指導”程蝶衣”の名前を見つける。
小楼は彼を訪ねて楽屋へ出向く。
 
若い女優に化粧を施す手の、その軽やかな手つきには見誤りようがなかった。
「蝶衣」
彼らは長い年月、孤舟のように、あるいは落ち葉のようにただよっていた。
何も感じないで生きてることに慣れ、過去を口にするのは苦しみを意味するだけだった。
 
「なにか歌おう、兄さん」
「僕は昔から虞姫になりたかったんだ」
 
あの刀は、今もここに在る。
 
映画は、小楼が
「小豆子」
と呼ぶところで終わっている。
しかし、小説はその後も続く。
 
光り輝く悲劇は終わった。
全ては偽りだった。
「僕は昔から虞姫になりたかったんだ」
蝶衣は持てる力の全てを注いだ。
それは彼の告別の演技だった。
 
映画のラストは張国栄と張豊毅の2人で話し合って決めたらしい。
それが蝶衣の自決だったのか。
それとも小説のように全ては偽りの冗談だったのか。
それは話し合った2人にしかわからない。
 
とはいえ、どうしても張国栄のリアルの人生を重ね合わせて観てしまうのは仕方のないことだ。
それほどに彼はカリスマであるから。
 
しかし、この3人の愛の帰結として。
ただ1人が残される結末は悲しすぎる。
小石頭と小豆子の愛はいわゆる男女間の愛などというものをとうに超越している。
幼き頃から培ってきた言わば魂のつながりだ。
願わくば、この世界の片隅に彼らの魂が二つ並んで居れる場所がありますように。

覇王別姫てこが見た感想

1994年公開当時の35mmフィルムを使用しての日本最終上映、とか言われたら見とかないとと思い。
気持ちを作って行ってきたが。
 
朝10:30の渋谷だ。(ル・シネマ)
フライヤーもないし満席だ。
こんな混んでる中華な映画は初めてだ。
修行時代シーンはなんとか堪えたが、張国栄がスクリーンに出た瞬間から涙が溢れ。
鼻を啜る音はうるさかろうとマスクを良いことに鼻は流しっぱなしだ。
しかし、多くの鼻水は自分の口に流れたが、それでもマスクがぐっしょりしてしまい、次のマスクを暗闇で探す。
・・・
結論として自宅でサブスクなりDVDなりで見た方がいい、という事だ。
自室なら何を気にすることもない。
 
しかしながら、何度見ても陳凱歌監督との意見の相違は否めない。
そしてこの映画はとても不完全だ。
大事なところが欠けている。
皆が名作だというけれど、本当だろうか。
てこは当時、張国栄だから観たし、他の俳優ならば見なかっただろう。
たとえ観たとしても、それは1回きりだろう。
何度も観るはずはない。
あくまでも張国栄の演じた蝶衣が知りたくて何度も見たのだ。
張国栄の蝶衣が見たいのだ。
だからこそまた見てしまうのだ。
映画としての魅力がそうさせたわけではないと言うことは、ここに明記しておきたい。
 
観客層が思いの外お若い方が多く驚いた。
なんにせよ多くの方が興味を持ってくれるのが素直に嬉しい。
観終わった後はどんなことを思うのだろうか。
京劇に興味を持ったり。
張国栄の他の作品を観ようか、などと思ったり。
はたまた陳凱歌監督作品を追いかけようか、と思ったりしただろうか。
 
最終上映とか言っといて、デジタルで戻ってきたりもするかもなぁ、などと思いつつ。
また会う日まで。
 
追記として。
@ベゴニアでいぶし銀の魅力を振り撒いていた@寧九郎さん。(鬓边不是海棠紅其の3
その昔は有名な旦(女形)だった設定で、中の人は雷漢/雷汉(画像左)。
若き雷漢さんは覇王別姫では、裏切りの小四を演じている。
うーむ、お若い。
 
原著では、捨て子は女児だ。
小四ではない。
師匠を同じとする(蝶衣たちと同じ)同門の師弟というだけでとりわけフォーカスされたりはしていない。

華流映画

Posted by teco